その思いは偽りなんかじゃない。【6/27あんちゃん初日】
6月27日、楽しみにしていた北山宏光主演舞台『あんちゃん』の初日に行ってきた。
こんなに始まる前から楽しみな舞台はなかなかない。
さらに観劇後、期待以上の思いを持ち帰ることもなかなかない。
『あんちゃん』は私にとってかなり特別な舞台となった。
『あんちゃん』を観ると、みんな語りたくなると思う。
この舞台は様々な角度から切り取ることが出来るし、観る人によって全く違ったものになるからだ。
かく言う私も、語りたくて仕方がない。
これ以降ネタバレ含む感想を落とします。まだ観劇していない方はご自身の選択で回れ右してくださいませ。
「人の為と書いて、偽り」
物語終盤、北山宏光演じる主人公、凌が言った言葉だ。
母が望むから「パパの所へ行きたい」という思いを封じ込めた凌。
母のため、家族のため……
果たして凌の行動は、偽りだったのだろうか。
転校したかった凌。
父の元へ行きたかった凌。
その思いを偽ることでしか、人の為に生きられないのだろうか。そもそも、人の為に生きる必要があるのだろうか。
個人的に、凌の母親がかなり怖かった。
姉2人が「お母さんは人が良すぎる」と言ったとき、吐き気がするほど嫌な気持ちになった。
どこが!!!この母親のどこが人が良いのかと。
「ここにいて」と、幼い凌に言う母親は、狂っているように見えた。
そして、凌は母の為という選択をする。
そこで母を捨てれば良かったのか…?
凌には別の選択があったのか…?
子どもは、親の世界で生きるしかない。
親が頼りなくなったら、子どもが大人になるしかない。
弟は天使になり、凌は“あんちゃん”にはなれなかったが、別の意味で、家族の“あんちゃん”になった。
なるしかなかった。
私は、凌には“何も選択肢はなかった”と思っている。
そんな凌に選択肢が出来たのは、父親に会いに行ったときだった。
“転校したい”
“パパのところへ行きたい”
凌が、凌の為に生きる選択肢だった。
でも父親は、それを受け入れたように見えて、最後に「母さんの了承をとれ」と言う。
なんてこと!!!!
絶望だった。
もうその言葉に絶望した。
この父親も、あの母親と同じだった。
まだ子どもの凌に、自分で母親を捨てさせようと言うのか。
自分の為に発言出来ない子が、唯一のワガママを言ったのに。
それがどれほど勇気のいることなのか、どうしてわかろうとしないのか。
どうして手を引いてあげないのか。
どうして「母さんには俺から話してやる」と言えないのか。
結局凌は、母親の元に残ることを選択する。
……というよりも、その選択肢しか残されていなかった。
そして名実ともに大人になった凌は、俯瞰で物を見るようになった。
家族をどこか離れたところから見ているように感じた。
家族でいるときに、「いたの?」と言われる凌。
姉のその言葉は、笑いの要素として働いていたが、凌の立ち位置を上手く伝えていた。
姉達が強烈なキャラクターというのも一種の理由だと思うが、凌は自分の存在を主張せず、ただ、家族を見ている。
そこに、北山宏光と重なる部分を感じた。
たまに北山くんには、「あ、今、外から見てるな」と、感じることがある。
グループの一員なのに、離れた所で、俯瞰でキスマイを見ているように見えるときがある。
決して孤独なわけではなく、彼独自の目線、特技だと私は勝手に思っている。
おっと、話を戻す(笑)
誰かのせいにしたら楽だ。
しかし、結果は全て選択した本人の責任になってしまう。
姉の、家族のために進学しなかったことや、家族のために、家事をしていたこと。
凌は言った。
「自分が選んだんじゃないか」と。
これほど人の為に生き、人に合わせて生きているように見えた凌が。
人のせいにして生きる姉に向けた言葉。
この言葉を凌の立場に置き換えてみる。
凌は、母を捨てられなかったんじゃない。
自分で選んだんだ。
凌は、“自分で選んだ”。
自分で選んだことにしている。
どう見ても選択肢はなかったのに、それを「自分で選んだ」ことにしている。
背負わなくてもいいものまで背負う。
そこにも、北山宏光と通じるものを感じた。
最初、この舞台のキャッチフレーズ“誰かのせい”を聞き、凌も誰かのせいにして生きている典型的なタイプだと勝手に想像していた。
しかし、凌はそうではなかった。
『人の為と書いて偽りだ』と、姉達に言い放った凌。
凌は、幼い頃から自分にそう言い聞かせていたのではないだろうか。
人の為というのは、偽りだ、と。
だから、自分が母の為というと偽りになる。
母への思い、家族への思いも、偽りになる。
偽りじゃないから……母の為という思いは偽りにしてはいけないから、自分が、そうしたいと思ったと言い聞かせていたのではないだろうか。
それは、とても孤独で、切ない。
弟か妹が出来たと聞いた凌。
あのときは、ただ、誰のためでもなく、
ただ、凌は、凌のために、
自分の為に喜んでいた。
自分の為に「弟がいい」と言った。
クマのぬいぐるみでオムツ替えしたり、お風呂入れたり、弟の面倒を見る練習をしていた凌。
あの頃が、凌の最後の子どもらしさだった。
あのときも、やっぱり凌は家族の“あんちゃん”で、これからも“あんちゃん”であり続けるのだろう。
父親のために、「いいよ」って言っていて、でもそれは、父親の為ではなく、偽りのない凌の愛。
家族の話で、よく出がちな「愛」という言葉が敬遠されているようにも感じた舞台。
これが愛だという自覚もなく、愛に溢れている彼に、偽りはないのだと思う。
表か裏、黒か白。
グッズがリバーシなことがかなりシニカルでしたが、この舞台のテーマにもなっていると思う。
ただそこに偽りはなく、田村氏が北山くんに感じた印象、孤独を感じない、明るい印象にも“偽り”はないのだと思う。
北山くんは、舞台への意気込みの中で「凌としてこの舞台に立っているように見えるように頑張りたい」と語っている。
私は好きな俳優や、好きなアイドルの舞台を観に行くとき、相手に任せている。
演者が、その役になりきっていたらそうだし、なりきれていなかったら、まぁ…それなりに楽しい(笑)という見方をしている。
普段、好きなアイドルや俳優の舞台は、ほぼ8割が、本人がチラッと見えて楽しいというパターンで、役に集中出来ない。
何度か公演を繰り返して役に見えることもあれば、ごくたまに、俳優の舞台では最初からその役に見えることもある。
北山くんは、珍しく、その、最初からその役に見えるパターンだった。
だから、後から流れてきたレポで「ティッシュ使いが!」というのを見たとき愕然とした!!
私はオタク!!何やってんの私!!喜ぶところじゃん!!何やってんの私!!!(2回目)
ちなみに私は、北山くんを前にすると取り乱す。うぁぁぁかわいいぃぃかっこいぃぃぃぃ!!!(心の声)となる。写真の前でそうだから、本人を前にしたら言葉を失う。(重症)
その私が、北山くんを前に、うわぁぁぁ(心の声)とはならなかった。
私には北山くんの姿をした凌だったから、凌がティッシュを高速で引き抜こうが、お茶を溢そうが、そりゃもう関係なかった。
レポを見たとき、これ、北山くんがやってたら?!と、想像すると、うぁぁぁぁぁ!!!と、騒がずにいられなかった。後悔。
オタク失格である。
初日から、北山くんではなく凌だったせいで、北山くん的な萌えポイントを萌えとして捉えられなかった。
しかし、北山くんが意図していた「凌として立っていた」んだから、そりゃもう仕方ない。
抗えない。
完敗だ。
役者・北山宏光にしてやられた。
それが、偽りない、私の初日の感想。
以上。